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十輪寺の縁起
行儀菩薩・弘法大師と十輪寺
十輪寺(杖櫻山密乗院十輪寺)は高野山真言宗に属する寺院です。昭和22年、当時十輪寺住職であられた大森智祥師は十輪寺の縁起について下記のように記しておられます。
十輪寺は、聖武天皇の代、天平11年(739年)に行基菩薩が開かれた寺である。 本尊の地蔵菩薩は、身の丈二尺五寸で首には仏舎利が納められて おり、吉野群白銀村湯川(現五條市西吉野町湯川)の薬師如来と同木である(同じ木を使って作製された)。
嵯峨天皇時代、弘仁の中頃(810年~824年)に弘法大師空海が諸国を遍歴されているとき、吉野山より十輪寺にお越しになり、七昼夜に渡り本尊に祈願をした。
また、和洲(現在の奈良県)にて弘法大師は五百の井戸を加持(祈願)されたが、その加持の初めは十輪寺の井戸であり、五百の井戸の内、もっとも素晴らしい井戸である。五百番目の井戸は法隆寺の近くにある五百井村(いそいむら)の井戸である。
弘法大師は、この地が末までも繁盛するようにと願い、身の丈2寸余りの辯才天女尊を安置した。 十輪寺の山号である杖櫻山は、弘法大師が吉野山より十輪寺にお越しになる時、吉野の桜の木を杖がわりにお持ちになられ、十輪寺をお立ちになる際、境内に突き刺していかれたが、その桜が成長し大きくなり見事な花を咲かせた。またその桜は毎年、吉野の桜と同時に先、色合いも、匂いもまったく同じであったという故事に由来する。
嵯峨天皇時代、弘仁の中頃(810年~824年)に弘法大師空海が諸国を遍歴されているとき、吉野山より十輪寺にお越しになり、七昼夜に渡り本尊に祈願をした。
また、和洲(現在の奈良県)にて弘法大師は五百の井戸を加持(祈願)されたが、その加持の初めは十輪寺の井戸であり、五百の井戸の内、もっとも素晴らしい井戸である。五百番目の井戸は法隆寺の近くにある五百井村(いそいむら)の井戸である。
弘法大師は、この地が末までも繁盛するようにと願い、身の丈2寸余りの辯才天女尊を安置した。 十輪寺の山号である杖櫻山は、弘法大師が吉野山より十輪寺にお越しになる時、吉野の桜の木を杖がわりにお持ちになられ、十輪寺をお立ちになる際、境内に突き刺していかれたが、その桜が成長し大きくなり見事な花を咲かせた。またその桜は毎年、吉野の桜と同時に先、色合いも、匂いもまったく同じであったという故事に由来する。
岡松家の菩提寺
江戸時代には五條は幕府の天領となり、松倉重正が治めました。十輪寺のある野原の地は岡松家が代官に任じられ、岡松家の菩提寺が十輪寺でした。十輪寺の壇塔場(墓所)には岡松家代々の墓が数多くまつられています。また、梵鐘は岡松四郎兵衛直勝が母の追善の為に奉納したものです。
辯天宗発祥の寺
辯天宗は宗祖智辯尊女が昭和27年にお開きになった宗団です。辯才天女尊を本尊とし、智辯尊女がお説きになられた「五行のお諭し」の実践を通して蓬莱世界の実現にむけて信仰活動を展開しています。
学校法人智辯学園、社会福祉法人祥水園、ちべん保育園などを設立、教育福祉活動にも力をいれています。
辯天宗をお開きになられるまで智辯尊女は十輪寺にお住まいになっておられ、昭和9年4月17日に十輪寺にて辯才天より天啓をおうけになられ、苦衆救済活動をお始めになられました。
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