大事なものを伝える・・・・臨界期


 1920年のこと、インドのカルカッタ付近の山中に怪しげな動物がでるという噂が立ちました。当時カルカッタで活動していたシング牧師夫妻が付近一帯を調査するとオオカミの洞窟の中に二人の少女を発見、保護しました。驚くべき事に、オオカミはこの二人の少女を自分の子ども同様に育てていたのです。夫妻はこの二人を引き取り、アマラとカミラと名づけ育てました。二人とも姿は人間なのですが、四本足で歩きまわり、手を使わず皿に直接口を近づけ生肉を食べ、昼間は寝て夜になると起き出し遠吠えをするなど、仕草、行動はオオカミそのものであったそうです。アマラは一年ぐらいで死にましたが、カミラはその後長年夫妻の献身的な世話を受けることになりました。
  多くの人々はオオカミに育てられたとはいえ、もとは人間の子どもなのだから、ほどなく人間社会に適応できるだろうと考えました。しかし、人々の予想に反し、夫妻がいくら熱心に教えてもカミラは言葉を覚えることはなく、また二足歩行もできないまま九才で死亡してしまいました。
 このことから、人間はふさわしい時期に、ふさわしいことを経験し、教えてもらわなければ本来の能力がなかなか身に付かない「臨界期」があるいう学説が生まれました。つまり人間とは生まれながら人間ではなく、まわりからの働きかけにより少しずつ人間になっていくということであり、私達はこの話から幼児期における教育の重要性を知ることができます。
 さて、教育といえば私達はいわゆる「読み、書き、そろばん」と考えやすいものですが、人への思いやり、物事への感謝など動物にはない「人間らしさ」を教えることも教育の大事な事項です。中でも、神仏への信仰心などは人間をさらに人間らしくする為に必ず子どもたちに伝えなくてはならないものとして、「読み、書き、そろばん」よりもむしろまず教えていかねばならないものだと考えます。
 ところが、残念ながら宗教を学問として学ぶことは学校でも可能でも、信仰心そのものは学校では教えてくれません。親に手を引かれて仏様の前で手を合わせた、神社にお参りにいった、そのような子ども期の体験のみが子どもたちに信仰心を伝えてゆく唯一の方法となるのです。仏事、神様ごとは年寄りの仕事とよくいわれますが、本当は子供たちにとって「人間らしさ」を伝える大変重要な行事になることを忘れてはなりません。成人してから手を合わせよといっても、カミラに言葉を教えようとしたのと同じようにもはや手遅れになることでしょう。今の世の中は、このような大事なことを子どもたちに伝えることを疎かにしたつけがきているのかもしれません。
  春から夏にかけて地元の神社仏閣では様々な行事が執り行われることでしょう。十輪寺でも春の行事が開催されます。ぜひともご家族そろって参加していただき、子供たちに人間として大事なものを伝える機会にしていただければと望みます。
    

(平成17年3月十輪寺通信より)
 

 
 

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