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地獄極楽はどこに
極楽と地獄はどこにあるのだろう。いや、そもそもそんな所が本当にあるのだろうか。皆さんはこんな疑問を感じたことはないでしょうか。江戸時代にある武士がこの疑問を解決するため、ある有名な老僧を尋ねたことがあるのだそうです。そこで、武士は件の質問をしました。すると老僧は、「お前は武士であるのにそんなことを気にしているのか。大変情けない奴だ。武士はいざとなれば命を主君の為に捨てねばならない。そんな立場にあるのに、地獄、極楽はどこにあるのだろうかなどと心配している。そんな気の弱い者に武士がつとまるか」と大変なお叱りを受けたのだそうです。しかも、老僧の毒舌はそれだけですまず、次から次へと、この世によくもそれだけ悪口があるものだと驚くほど老僧の口から飛び出してきたのです。
最初、武士はその悪口を我慢して聞いていましたが、しばらくする内にとうとう堪忍袋の緒が切れてしまい、刀に手をかけ立ち上がり、「おのれ。おとなしく聞いておればいい気になり、人をばかにする。お前にそこまでばかにされてはもはや武士として生きていけぬ。お前を切り、私も自害する」と叫びながら切りかかっていきました。ところが、見かけによらず老僧は大変身が軽く、ひょいっと武士の刀をかわしてしまったのです。すると、武士はますます頭に血が上り、更に怒り狂い老僧を追っかけ切りかかっていくのですが、振り下ろす度にかわされてしまうのです。しかし、とうとう部屋の隅においつめ、刀を上段に構えまさに切りつけようとしたその瞬間、老僧は静かにこう言いました。「そこが地獄じゃ」。それを聞いた武士ははっとして、刀を捨て去り、畳に手をついて老僧に「申し訳ありませんでした」と詫びたのです。すると、また老僧は「そこが極楽じゃ」と言ったのです。
地獄、極楽といえばあの世の話で、生きてる私達には関係ない、そんなふうに私達はよく思ってしまいますが、しかし、このお話のように、考えて見れば、心の持ち方次第で私達はいつでも身を極楽に置けるし、また地獄にも身を置くことができるのです。では、極楽に身をおける心とはどのような心なのでしょう。それは感謝する心だと思います。感謝を持ち生きるか、不平不満を持ち生きるか、見かけは少しも変わらないかもしれませんが、それは極楽に身を置き生きるのか、それとも地獄に身を置き生きるのか、という大きな差となり表れてくるのです。しかし、私達はつい家庭のこと、仕事のこと、人間関係のこと等様々なことで心が不満に浸かってしまい、そして、自ら作り出した「地獄」で苦しんでいることが多いのではないでしょうか。
不平不満にとらわれていると感じたとき、ぜひ神仏に手をあわせてみてください。知らず知らずの内に感謝を忘れ、自ら作り出した地獄(不満)で苦しんでいる自分に感謝の息吹を吹き込ませることができることでしょう。