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多生の縁
昔、昆虫好きの少年がいました。その少年にとって最大の喜びは一日中昆虫を観察していることだったのですが、もちろん一日中昆虫ばかり観察しているわけにはいきません。学校に通い、学校では、様々な学問を学ばなければなりません。しかし、どうしても昆虫のこと以外に興味がわかず、学業にも身が入らなかったそうです。当時は戦時中であり、学校では毎日のように軍事教練が実施されるのですが、もともと虚弱体質の少年にとって、その時間が嫌で嫌でたまりません。また、少年の両親も、将来とてもお金を稼げそうにないように思われる昆虫の研究は絶対反対という状態でした。そんな事情が重なりとうとう少年は、学校へ行く時間になると高熱がでる、今で言う登校拒否となり家で寝こんでしまうようになったのです。
欠席が何日も続いたある日、担任の先生が自宅にやって来られました。先生にきっと怒られるのだろうと思ってると、驚いたことに先生は、まず両親に「ご子息は、昆虫が大変好です。どうか将来昆虫の勉強をするのを許してやって下さい」と手をついて頼んでくれたのでした。先生の真剣な姿に両親は大いに感激し、「そこまで先生がおっしゃるなら」と少年が昆虫を研究するのを許してくれました。
すると先生は、次に少年の方を向き、このように言ったのでした。「今、君のご両親は君が昆虫の勉強をすることを許可をして下さった。だから大いに昆虫のことを研究すればよい。でも昆虫のことを研究しようと思えば、昆虫だけを見ていてはいけない。例えば、昆虫は、様々なにおいを出すが、そのにおいの成分を突き止めようと思えば、科学を勉強しなくてはいけないだろう。昆虫は、遠い国からやって来るものもあるが、その国のことを学ばないと昆虫の生態もわからない。その為には、地理の知識が必要だ。昆虫は、空を飛ぶものが多いが、なぜ空を飛ぶことができるのだろう。そのことを知るには、物理の研究も必要だ。昆虫に関する文献も読む必要もあるだろう。国語をしっかり学ぶことが大切だよ。また、海外の文献を読もうと思えば、外国語も学ぶ必要がある。だから、一つものを学ぶには様々な知識が必要なんだ。」こんなことを先生は言って、一言も学校へ来いとは言わずに帰ってしまったそうです。しかし、少年にはこれで十分。その日から人生が一変しました。
このお話しは、日本を代表する昆虫学者、京都大学名誉教授、日高敏隆博士の少年時代のお話しです。日高博士がこの先生にもし出会わなかったらどうなっていたのでしょう。不登校が続き、才能は埋もれたままになっていたのかもしれません。学校、仕事、サークル、遊び、旅先など、私たちは日々様々な場所で色んな人に出会います。よほど特別なこと、たとえば有名な人に出会ったというようなことがない限り、日々出会う人に特別な想いを持つことはないものです。しかし、偶然とも思える出会いが、自分自身の運命を変える出会いになるかもしれないのです。
縁は異なもの味なもの袖振り合うも多生の縁
結婚式のスピーチでよく使われることわざです。はじめてこのことわざを聞いたとき、「多生の縁」とは縁が多いか、少ないか、つまり「多少の縁」のことだと思いました。しかし、後日、辞書で調べてみると、「多生」という言葉は、輪廻転生を繰り返し、何度も生まれ変わることと記載されていました。今の人生だけでなく、過去の数多くの人生。なんと壮大な言葉なんでしょう。このことわざのように、人の出会いは決して偶然ではなく、たとえ偶然と思えるような出会いであったとしても、何らかの深いご縁によるのかもしれません。ましてや、親子の縁、兄弟の縁、夫婦の縁ともなると、人智を超えた、計り知れない深いご縁があり、その関係が生まれてくるのでしょう。親族のご縁は何よりも大切にしていかねばなりません。
しかし、私たちはご縁の有り難さになかなか気づかなかったり、せっかくいただいたご縁を粗末にしてしまうことが多いものなのです。
小才は縁に出会って縁に気づかず。
中才は縁に気づいて縁を活かさず。
大才は袖振り合って縁をも活かす。
中才は縁に気づいて縁を活かさず。
大才は袖振り合って縁をも活かす。
これは、江戸時代の剣豪柳生家の家訓だそうです。せっかくのご縁をいただきながら、気づかないのは、せっかく宝物を手に入れながら、その宝を捨て去っていることと同じなのでしょう。日々の出会い、出会った人とのご縁を大事にしたいものです。そして、もちろん、十輪寺ホームページにアクセスし、この文書をお読みになっているのも何かの深い?ご縁なのかもしれません。
令和3年5月