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やったやったで地獄行き
かつて、日本には、親夫婦、子夫婦、そしてその孫たちといった三世代にわたる大家族が一つ屋根の下で同居をするのが当たり前の時代がありました。しかし、現在では、親は田舎に住み、子どもたち一家は都会にという核家族化が進み、もはや多くの日本人は大家族での生活を経験することはありません。ところが、ある週刊誌に、東京などの都心部において、逆転現象が起きているとの記事が掲載されていました。つまり、ばらばらになった家族がまた一緒に生活をしはじめているということなのです。
分かれて住んでいた家族が一緒に住もうとするのは、互いの利害が一致するところにあるようです。都会で生活をする若夫婦にとって、都心で家を持つのは大変な財的負担となります。しかし、親を引き取ることにより、親の財産をあてにすることができます。田舎に住む老夫婦にしてみれば、お金を出す代わりに子や孫たちと一緒に生活ができ、将来の不安がなくなります。
週刊誌では、都心に住んでいるある若夫婦が、田舎の年老いた両親を呼び寄せ、都会で一緒に生活をはじめる話を紹介していました。老夫婦は、田舎の屋敷を売り払い、子や孫たちとの生活に喜びと期待を抱き都会へ移り住むのです。このような場合、ほとんど、田舎の親たちが多額のお金を出して都心の住居を購入しているようです。
どのような理由があろうとも、ばらばらに生活をしていた家族がまた一緒に生活を始めるというのはすばらしいことのように思われます。しかし、実状は結構トラブルが多く、美談の背後には同居生活への不満が渦を巻いているのです。そして、その不満は老夫婦側に集中しているようです。嫁に邪険にされた。子どもや孫に冷たくされた。引き取ったのは、結局お金が目当てだったのだ。このような不満があふれ、同居を後悔し、田舎に帰りたいという老夫婦が多いのだそうです。何もかもうまくいくはずだったのに、何が間違いだったのでしょう。
梁の武帝は仏教に帰依し、国中に多くの仏塔を建て、僧侶を大事にしてきました。その梁に高名なインドの僧侶、達磨大師が禅を伝えるためやってきました。ある日、武帝は達磨大師出会い、日頃から思っていた疑問をたずねたのです。私は、いままで多くの仏塔を建立してきましたが、私の功徳はどれだけあるのでしょう。山のように高い功徳だと褒めてくれるのだろうと期待する武帝だったのですが、達磨大師の答えは、一言、「無功徳」でした。
何か良いことをした時、人に何かを与えた時、私たちの心のにはどうしても見返りを求める心が生じるものです。これだけのことをしたのだから、褒めてもらって当然だ。これだけのことをしたのだから、それに見合うものが返ってくるだろうと打算が働くものです。しかし、良いこと思って一生懸命相手に尽くしても、相手に気持ちが伝わらないこともあるし、それどころか、相手は少しも良いことをしてくれたと思っていないかもしれません。もくろみが外れたとき、自分のしたことを分かってくれない相手のことを残念に思い、時には恨みさえ持つようになります。結局、見返りを求めていると、たとえ相手の為にしたことであっても、してやったという心が禍を生み出すかもしれないのです。
仏教では、喜捨(きしゃ)を尊びます。喜捨とはその字の通り捨てるということです。誰しもゴミ箱に捨てたものをいつまでも覚えていませんし、未練もないことでしょう。なぜなら捨てたからです。捨てたものは心に残りません。捨てたものに私たちはなんら見返りは期待しないのです。更に喜捨は、誰かに言われて嫌々捨てるのではありません。強制されてではなく、自分の意思で、しかも喜んで捨てるのが喜捨なのです。
もし捨てたはずなのにもし見返りを期待しているとするならば、それは、捨てないで、貸したり売ったりしているのかもしれません。貸したものはいつかは返して欲しいものです。売ったものは相手に代金の支払いを求めます。しかし、借りたつもりもない、買ったつもりもない相手は、恩着せがましい相手の言動に嫌な気持ちになります。良い行いをしたつもりでも、相手のためと思ってした行為でも、余計な心が自身と相手の不満を生み出し、せっかくの行いを台無しにしてしまうのです。
老夫婦と若夫婦同居がうまくいかない理由は、様々な理由が考えられますが、根本は、互いの捨て切れていない心にあるように思えます。老夫婦側はお金を出してやったのに、という気持ちがあることでしょう。そして、若夫婦側には、引き取ってやったのだという気持ちが働くものです。つまり、「やってやった、してやった」とういう感情のぶつかりあいがせっかくの同居を台無しにしているのでしょう。
子育ても同様です。小さな赤ちゃんの世話をするお母さんが、赤ちゃんに何かを期待することは多分ないでしょう。ただ子のためにひたすらお世話をします。そこには打算など入る余地はありません。しかし、子どもが大きくなると、塾や習い事を始めるようになると少し状況が変わってきます。子どものためを思って習い事をさせるのですが、これだけしておけばよい大学にいけるだろうとか、よい職につけるだろうと子どもの将来を考える親なりの期待と打算が混じってくるようになるものです。子どもは親の期待がよくわかります。子どもなりに応えようと努力をするのですが、全ての子どもが親の期待に応えられるわけではありません。途中で挫折することもあるでしょう。そんな時に、もし親が、あなたには期待していたのにとか、あなたの為を思ってしてきたのに、更に、あなたにいくらつぎこんだのか分かっているのか、というような心ないことを言ったとします。逃げ場がなくなってしまった子どもは、頼んでしてもらったわけじゃない、挙げ句は、産んでくれと頼んでもいないと理不尽な理由を言い親を嘆かせてしまうかもしれません。結局、成果という見返りにこだわると、何よりも大事な親子関係がギクシャクするようになるのです。
ああしてやった、こうしてやった、やったやったで地獄行き
達磨大師が無功徳と答えたのは、捨てきることができない武帝への戒めであったのでしょう。
令和3年5月