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三密具足
三密といえば、今や誰でも知っている言葉です。コロナウィルスに感染しないように密閉・密集・密接の三密を避けましょうと使われるのです。しかし、三密は、もともと仏教用語であり、行(ぎょう)をする者にとって大切な心構えを意味する言葉なのです。仏教では、三密は避けるべき状態ではなく、求めていかねばならない大切なものとされています。三密はだめ!と、マイナスな言葉として広がってしまったことは誠に残念なことで、これもコロナ被害の一つかもしれません。
戦後間もなくある事情を抱えたAさんが救いを求め智辯尊女のもとを訪れました。尊女は、Aさんの話を聞き、修養科に入って修行をするようにお指図をされました。修養科は尊女が御教えを学び、実践する場として設けられたもので、当時、十輪寺の境内にある教堂が道場でした。しばらくしてAさんの修養科での生活が始まりました。修養科では、朝早くからの下座行(清掃)、祈りの行、御教えの修得など、数々の行を次々とこなしていかねばなりません。中でも大変だったが行中の食事だったのです。戦後間もない食糧事情が悪い中での一汁一菜、とても質素なものでした。また、食事をいただく前に、仏飯としてご飯を本堂の仏さまお供えすることになっており、お供えをした仏飯は捨てないでお櫃(ひつ)にもどし、皆でいただくのです。夏場は食べものが傷みやすい季節。朝お供えしたご飯は昼頃になると腐敗が進み、嫌なにおいがしていたそうです。このような食事が続く中、行をしている人たちから不平を言う者がでてきました。まずい。こんなものを食べられない。中には夜中こっそり抜けだし、外で食事をするものまででてきたのです。
そのような様子を耳にされた尊女は、ある日、Aさん一人を呼ばれ、「不満を言いながら行をしていても意味がありません。そのような人はここにいて欲しくないのです」と強く叱責されたのだ。叱責を受けたAさんはとても驚きました。なぜならば、他の者が文句を言っているのは耳にしていましたたが、自分はそのようなことを一言も言った覚えがないからです。そこで尊女に、「恐れながら、私は不満など一言も言っていません。なのに私を呼び出し、叱責するのは理屈に合わないのではないでしょうか」と反論したのです。
すると、尊女は、「あなたが言っていないのは私も分かっています。だからこそあなたを呼びだしたのです」と言われたのでした。悪いことをしていないのに怒られる。戸惑うAさんに、尊女は次のようにおっしゃいました。「あなたは、言葉で言っていないけれど、心の中では不満でいっぱいでしょう。他の人たちは、不満を口にだした時に、こんなことを言ってしまった、言わねばよかったと、わずかにでも反省をします。しかし、あなたは心の中で思っているだけだからいじょうぶだろうと反省をすることもありません。Aさん、心の中で思ったことは、行いに表したことと同じなのですよ。なのに反省をしないあなたが一番罪深いのです」それを聞き、全てを悟ったAさんは、「申しわけありませんでした。何卒お許しをください。もう一度、行をさせてください」と心より懺悔をしたのでした。
次の日からAさんの生活は一変しました。一心に日々の行に取り組み、特に、食事をいただく際は、どんなものであろうと感謝をしていただくようにしたのです。ゆっくり食べていると、食べづらいので、一気にどんどん食べるようにしていたら、他の者は驚き、「Aさんはこのようなご飯でも喜んで食べるのか。それだったら俺のも食べてくれ」と食べものをもってくるようにさえなったとのこと。
長い行が終わり、まずAさんはまず病院を訪れました。なぜならば、Aさんは病を患っていたからなのです。医師から、「残念ながらあなたはもう長くはない。おいしいものを食べてゆっくりと過ごすように」とさえ言われていたのです。病院の窓口にいくと、受付の看護師さんがたいそう驚き、慌てて医師の所にいき、「Aさんが来られていますが」と告げるのです。「Aさんがきた?そんなことはないだろう。彼はもう亡くなっているはずだから・・・」医師と看護師のそのようなヒソヒソ声が聞こえてきたのです。
医師はAさんの診察を終え、病気は完治していますと、驚くべき結果を告げると、不思議そうに、今までどのような生活をしてきたのかと尋ねたのです。Aさんは、修養科の生活の様子をありのまま医師にお話ししました。すると医師は、「私はあなたが嘘をつかない正直な方だと思っていました。でも、残念ながらそうではないようですね。あなたのおっしゃるような生活、食事で病気がよくなるはずはありません」と立腹されたそうです。Aさんは、その後、尊女によく仕え、90歳をこえ天寿を全うされました。
三密とは、身(しん)、口(くう)、意(い)のことであり、それを具足(ぐそく)させる(一致整える)ことが行をする者にとって大事なことだと言わています。なぜならば、いかに一心に祈ろうとも、荒行を身を投じようとも、心が乱れ、濁っているようならば、全ては台無しになるからです。また、いかに正しい心を持とうとも、その心が行いに表れないとするならば、宝の持ち腐れになります。
三密具足とは、行い、言葉、心を整えることですが、中でも難しいのは心を整えることでしょう。行い、言葉は、形に表れるので、間違いに気づきやすいものです。しかし、心には目に見える形がありません。それがゆえに私たちは相手を誤魔化すことも可能だし、自分ですら間違いに気がつかないこともあるのです。尊女がAさんにおっしゃった「心で思ったことは形に表したのと同じ」は、なんと厳しい言葉でしょうか。見えないから、わからないから構わないという私たちの甘えを叱責されるのです。
何かうまくいかなくなったとき、私たちは自分以外のものにその原因を他に求めやすい。あの人が悪いから、私には与えられていないからなど、つい他を批難し解決しようとするものです。しかし、うまくいかない原因は私たちの心の中にあるかもしれません。まず目を向けるのは己の心なのです。自分の周りにあるものは何一つ変わらない、でもあなたの心がほんの少し変えてみれば、全て変わるかもしれないのです。