素話(すばなし)

 保育園で子どもたちにお話を聞かせる時、よく用いられるのが絵本です。保育園には、たくさんの絵本があり、子どもたちは絵本を通して様々な物語に出会っていきます。絵本との出会いは、子どもたちにとって大変楽しいものであり、絵本の読み聞かせは保育園の保育において欠くことのできない大切なものなのです。お話をする時に用いるのは絵本だけではありません。紙芝居、ペープサート(画用紙などを使った人形劇)、エプロンシアター(エプロンを使った人形劇)など様々な手法を使って保育者は、子どもたちにお話をしていきます。その手法の一つに素話というのがあります。

 素話とは、絵本や紙芝居などとは違い、絵本はもちろん小道具など何も使わないで、素のままでお話をすることです。素話をする時、お話をする人は、何も持たず、お話を進めていきます。でも、なぜ絵本を使わないでお話しするのでしょう。子どもたちにとっても絵本があった方がお話がわかりやすいはずです。実は、そこが素話の大切なところなのです。

 素話の時、子どもたちには、絵本に比べて少ない情報しか入ってきません。例えば、「むかし、むかし、あるところに、おじいさんと、おばあさんが住んでいました」というお話を絵本で読んでもらった時、絵本には、おじいさん、おばあさんの姿が描かれているので、子どもたちは簡単に共通のイメージを持つことができるでしょう。でも素話では、絵がありません。ですから、子どもたちが各自で想像力を働かせ、おじいさん、おばあさんの姿を作り上げていく必要があります。

 腰の曲がったおじいさん、おばあさんでしょうか。すらりと背の高いおじいさん、おばあさんでしょうか。着物はどんな色の着物を着ているのでしょう。赤、青、黄色・・・。ひょっとしたら、二人とも着物ではなく、おじいさんは背広で、おばあさんはステキなドレスを着ているかもしれません。「あるところに」もいっしょです。たくさんの人が住んでいる大きな町、緑いっぱいの山の中、大きな海が広がる海辺の町・・・・。子どもたちは自由に様々なイメージを作り上げていきます。絵本だと、絵本に描かれているおじいさん、おばあさんの姿や住んでいるところの光景は、絵本に描かれたものに固定されてしまうのですが、素話だとおじいさん、おばあさんの姿、住んでいるところの様子は子どもの数だけ違ってくることでしょう。

 このように、素話は、情報が少ないが故に、聞き手の想像力、感受性、聞く力を高めるといわれています。つまり、人間は、情報が少ないと自分で考え、情報が多いと自分で考えること放棄してしまう傾向があるともいえるのでしょう。現在社会は様々な情報にあふれています。ネットを通して調べると世界中の情報がたやすく手に入れることができます。しかし、その情報が必ずしも真実だとは限らないのです。偽の情報、裏付けのない不確かな情報も飛び交います。そして、いったん偽の情報が多くの人びとに共有されてしまうと、あたかもそれが真実となってしまい、なかなかそれを払拭するのが難しくなるものです。

 9月1日は防災の日です。多くの被害をもたらした関東大震災の発生した日にあわせて定めらました。関東大震災が発生した直後、横浜にて朝鮮人が井戸に毒を入れたとのデマが飛び交いました。そのデマを信じた人たちが朝鮮の人たちを襲い始めたのです。横浜の鶴見警察署には、暴徒に追われた朝鮮の人たちが逃げこんできました。その数は300人にものぼったそうです。鶴見署の大川署長は逃げてきた人たち全てを保護したのです。追ってきた人たちは、朝鮮の人たちを引き渡せと主張しましたが、大川署長は、決して応じず引き渡そうとはしませんでした。おさまらない人びとに大川署長は、「では、その毒を入れたという井戸水を持ってきなさい」と言い、そして、井戸水を皆の前で飲み干したのです。毒が無いとわかるとようやく群衆は落ち着き帰っていったのです。

 あふれる情報は、時に、人びとの冷静さ、考える力を奪い時としてパニック引き起こともあります。そんなとき、いったん飛び交う情報をあえて打ち切り、冷静に自分で考え、想像すると本来の姿が見えてくるのかもしれません。

 真言宗には、阿字観という瞑想方があります。阿字という梵字一文字の書かれた軸の前に座し、仏と宇宙を感じるように瞑想するのです。阿字観と素話には共通点があるように思えます。阿字観では、宇宙の絵も仏さまの絵も用いることはありません。現在の技術だとバーチャルリアリティーを取り入れば、あたかも宇宙空間にいるような疑似体験の場を作り出すことも可能でしょう。しかし、阿字観では、あくまで阿字一字とういシンプルな状態で瞑想に入っていきます。素話と同じく、少ない情報量が故に視野、想像力が無限に広がり、宇宙本来の姿を感ずることができるのでしょう。

 季節は、ちょうど秋の彼岸の時期。暑さ寒さも彼岸までと言われるように、一年で一番過ごしやすい時節になります。日々大量の情報に接する私たちは、一度、スマフォ、テレビパソコンも一度忘れて、素になる生活をしてみることも大事なのかもしれません。お墓参りをしてご先祖に手を合わす。ただそれだけのことを通して、情報を集めてなんとか理解しようと思っても分からなかったことが分かることができるかもしれません。

 さて、素話についてですが、素話をする人は結構大変です。絵本などを使わないで話を進めていきますので、物語をまず暗記しておかねばなりません。また、子どもたちの興味を引きつける絵がないので、どうしても子どもたちの集中力が続かなくなる(お話を聞かなくなる)ことがあります。そこで、素話をする方の声の質、強弱、表情などがとても大事になってきます。なかなかできないように思えますが、夜、お子さんと一緒に寝るとき創作の物語を聞かせてあげてみてください。これもりっぱな素話です。絵本にはない、お父さん、お母さんのオリジナルの物語は、子どもたちの空想力を高め、いつまでも忘れることのできない親子の思い出となることでしょう。 

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