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取捨選択
取捨選択とは自分にとって良いもの、役に立つものを取り入れ、悪いもの、不要なものを捨てることです。良いことがあって欲しいと願い、辛いこと、悲しいこと、嫌なことは避けたいと思う私たちにとって人生は取捨選択の連続だともいえます。
子どもの頃、しばらくピアノを習ったことがあります。自分で進んでやろうと思ったわけでもなく、母が子どもにピアノを弾かせたいと思いけいこが始まったのです。ところが母親の思いとは反対に私にとっては、ピアノのけいこは単に嫌なものにすぎなかったのです。小学校の低学年で、まだまだ遊びたい盛りの時期。やりたくもないことをするのがともかく嫌だったのです。それに、将来あんまり役にたちそうもないことをしてもしかたがないのではないかとも思っていました。それでも一年ぐらい毎週一回のけいこは続き、それなりに弾けるようになっていましたが、あまり嫌がる姿を見かねたのでしょうか、ピアノのおけいこは結局取りやめになってしまったのです。もちろん一番喜んだのは私でした。なんといっても嫌なことをする必要がなくなったのですから。
それから四十数年の月日が経ち、十輪寺の住職をしながらちべん保育園の園長をする生活が始まりました。十輪寺の住職に関してはすでに真言宗の僧侶の資格を持っており、また、長年お寺の仕事をしていたので戸惑いはあまりありませんでしたが、保育園の仕事は初めての経験であり、試行錯誤の日々が続きました。保育園で働くには保育士資格が必要なのですが、民間保育園の園長は特例で資格が要らないことになっています。しかし、大切な子どもたちをお預かりする者が知識も資格のないという訳にはいきません。保護者の信頼を得るためにも一念発起し保育士資格を取ることにしました。
保育士資格を取るには、学校に通い学ぶ方法と、通信教育で学び認定試験を受けるという二種類の方法があります。働きながら資格を取る人にとって、昼間の勤務を終えてから自宅で勉強することできる通信教育は有り難い制度で、私も通信教育を利用して資格を取ることにしました。 認定試験は筆記と実技があります。筆記はともかく問題なのは実技です。実技はピアノの演奏をしながら歌を歌うというもので、ピアノを弾いたことがない人にとってはこれがなかなか難しいものになります。私の場合はここで子どもの頃ピアノを習っていた経験が役にたったのです。しかし経験があるとはいえ子どもの頃のこと。昔習ったころを思い出しながら、何と四十数年ぶりにピアノのけいこをすることになったのです。
自分の人生でピアノを演奏することが必要になる。子どものころそんなことは想像もすることができませんでした。ピアノのけいこをしながら、あの時やめないで続けていればこんな苦労はしないのにとまず感じたものです。試験当日、手が震えるぐらいの緊張をしましたが、なんとか演奏を終え、無事に資格を取得できたのです。子ども時代の嫌々ながらの経験が、40数年後役にたったのです。
良いものを残して、悪いものを捨てる。取捨選択をする時の基準となる考え方です。しかし本当に自分にとって何が良いのか、悪いのかというものは分からないものです。誰だって辛い経験はしたくないものです。でもその経験があるから次に来る苦難を乗り越えていけるのかもしれません。誰だって悲しい思いはしたくないのです。でもその悲しみを知っているからこそ、人の悲しみもわかる温かい心を養えるのかもしれません。どんなことであろうとも、たとえそれが些細なことでも、無駄に思えることでも人生において意味のないものはないのかもしれません。
お大師様の教えに、「知らず自心の天獄たることを、あに悟らんや唯心の禍災を除くことを」というお言葉があります。天界や地獄界というものが自らの心の作り出したものに過ぎないことを悟っていない。このようなことで、どうして心の迷いを取り除くことができるのかと問いかけておられるのです。つまり物事をどう捉えるかで災いとなったり、幸せになったりしていると言う意味です。苦しい中でもただ悲観するのではなく、そのことにも意味があると考えることが「禍転じて福となす」力になるのかもしれません。コロナウィルス感染症に苦しむ我々ですが、この苦難を乗り切るにはワクチン開発だけでなく、心の持ち方も大事なのかもしれません。