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オンサンマヤサトバンの心
ある時、フランス人のお子さんを一時保育でお預かりすることになりました。お母さんがフランス人でアフリカ系の方。お父さんは日本人で、お父さんの里帰りで五條にしばらく滞在することになったのです。お預かりするお子さんは二才の男の子です。肌の色はお母さんといっしょで黒く、髪の毛は茶色で縮れ毛。お母さんによると言葉は日本語と英語とフランス語が分かるし、フランスでも保育所に通っていたので、日本の保育園でも不安はないとのことでした。ただ、おっしこは「ぴぴ」、うんちは「ぽぽ」と覚えているので、定期的に「ぴぴはだいじょうぶ?」「ぽぽは大丈夫?」と聞いてやって欲しいと言われました。
日本にいる間の一週間、午前中だけお預かりすることになりましたが、すこし不安な点がありました。それは、子どもは自分と違っているものに敏感に反応するということです。大人であれば、何かおかしいと感じていても、穏便にすませてしまうことができます。ところが、子どもは遠慮をしません。違うものは違うとはっきりと言い、時として相手に嫌な思いをさせてしまうことが多いのです。
私は、フランス人のお子さんが外見上の違いのせいで、ひょっとしたらとても嫌な思いをするかもしれないと心配になったのです。ところが、男の子は母親と離れる時に少し泣きはしましたが、自分と同じ年代の二才児クラスに入ると、ごく自然にクラスになじんでいったのです。クラスの子どもたちも、最初はすこし驚いた様子でしたが、自分たちと見かけが違うお友だちをなんら気にせず、一週間とても楽しくいっしょに遊んだのです。つまり、心配する必要などなにもなかったのです。
ところが、これが年齢が高くなっていくとこうはいきません。だんだん子どもたちは「違い」に対して厳しくなってくるのです。小学生ともなると、自分たちと違っていると、からかい、仲間はずれにしたりすることが多くなります。年齢が上がると、ただ外見が違うというだけで、いじめが始まる可能性があります。
人間にはいろんな違いがあります。もちろん同じ日本人でも違いはたくさんあります。背が高い、低い、やせている、太っている、スポーツができる、できない、勉強ができる、できないなどなど、人それぞれ違いがあり同じ人はいないでしょう。問題なのは、その差が開いていくと、優位にあるものは、差の大きさをもって相手を馬鹿にし出すことです。そこで、一時期、学校では、差をなくそうと勉強の内容をできない子にあわせたり、運動会ではみんな一等賞をとれるように手をつないでゴールするという試みも行われました。しかし、これではうまくいくはずがありません。なぜなら、みんながやる気をなくしてしまい、全体のレベルがどんどん低下していくからです。
そもそもの差があるのは悪いことなのでしょうか?私は人間の「差」というのは「歯車」のようなものだと思います。歯車は凹凸があわさり、回転し、大きな力を発揮します。凹と凹、凸と凸をひっつけても歯車は回りません。凹と凸が組み合わさってはじめて歯車が回り始めるのです。凹を欠点、凸を長所とすると、他者の欠点をまた別の誰かの長所でうめることで、人間社会という歯車は動いていくのではないでしょうか。つまり、でこぼこがあるからうまくいく。みんな平等なんだからといって長所も欠点もなくしてしまおうとすると、空回りして歯車になることはありません。
「おんさんまやさとばん」という御真言があります。意味は仏様と私たち人間は差が大きいように思えるが、本来は同じという意味です。仏様と私たちが同じ・・・?なかなか理解出来ない教えかもしれません。しかしもし私たちと仏様も歯車のようなものと考えると理解出来るかもしれません。手を合わせ、仏様を受け入れる。すると、凡夫の私たちも自然と仏様の歯車の中でくるくると回り、大きなお力をいただける。自然に仏様を受け入れなさい。これが「おんさんまやさとばん」の教えなのかもしれません。
難しいことのように思えますが、二才児の子どもたちがフランスの子どもを受け入れたように、見かけの違いや能力の違いにかかわらず自然に相手を受け入れればよいということなのかもしれません。今の世の中、相手を非難し中傷することが多く、なんとなくギスギスとした世の中になっているような気がします。相手の足らない所を批難するのではなく、己が持つ長所で補うことができれば世の中もっとうまくいくのかもしれませんね。